早い旅行のパンフレットでは年明けから、3月に入るとテレビや新聞でも、桜の開花の話題でいっぱいになります。厳しい寒さもようやく終わりを迎え、あたり一面が幸せな桜色に包まれるのを待ち焦がれるのは、おそらくは日本人なら誰でも、とりわけ、大きな災害で日本中が打ちひしがれている時は本当に誰もが持つ、共通の感情であるような気がします。
私も、子どもの頃はなんとも思わなかったのですが、むしろ、若葉が満ちる頃のぶら下がる毛虫がつきやすい樹として、あまり好ましく思わなかったほどなのですが、歳のせいか(?)、年々桜の花が好きになってきました。桜の名所を訪れるほどのことはなくても、毎年「いつもの桜を見ることができた」と安堵し、来年も穏やかな気持ちで同じ桜を見ることができたならと、この世と自分の周囲の人たちの安寧を祈るのです。
そんな日本人の遺伝子レベルの美感や世界観を現す植物には、松や竹、秋の紅葉やススキ、梅や菊などがありますね。どれも、常緑が永遠を願い、風に揺れる様にわびさびを想い、その季節を示す花に時の移ろいを重ねているのだと思います。
さて、私の住む街の一角には、ところどころに椿の木が配置されています。原種の藪椿とさほど変わらない、よくある濃いピンク色で花弁数もあまり多くない、実に地味で一般的な椿です。常緑樹なので玄関先が冬でも寂しくならないし、よく剪定されているので花数も多く、毎年、雪がちらつく寒い時期から花を咲かせます。
以前、友人が、椿と山茶花の区別を知らないと言っていました。ふーむ、ごつい葉のツヤツヤした様や花の色や付き方もよく似ていますね。どちらも家庭の庭先や公園や街路樹として植えられることが多いので、親しみも同じくらいなのでしょうか。いちばん違うのは、やはり、「散り椿に重ねる武士道」のとおり、花の散り方でしょう。山茶花は花びらをバラバラに落とすのに対し、椿はひと花ごと潔く散ります。
1月のまだ寒さのピーク前から咲き始めた当地の椿は、4月ごろに全国各地で銘木と呼ばれる幾分園芸用に改良された木々の見頃を迎えた後、5月に入ってもまだ花を付けています。ああ、厳しい風雪に耐え、長い年月に渡り人々の営みを見つめ、たくさんの人や時代が樹のすぐそばを行き過ぎていくのをただじっと見守りながらいつもの通りに咲く、それが椿という花の力強さであり無常感なのだと、見上げるたびに感じ入ります。無常観というならたぶん桜も同じなのに、見る側の世人の心持ちがこんなに違うのは不思議なものです。桜は、人々が開花を心待ちにし、人が育て、人が守っているのに対し、椿は、すっくと自分で立ち、しなやかに時代を生き抜き、力強くも優しくひっそりと人々を見守っている気がするのです。
散った椿の花は、お掃除の方が片付けてくださるのが常なのですが、他の花びらと違って、そのままにしておくのも風情があります。お掃除の方がそうしてくれているのかいないのか定かではありませんが、地面に落ちたままになっている花たちを美しいと思うのも毎年のことです。
今年は、ちょっといたずらをして、一番下の写真を撮ってみました。椿の木のすぐ下に美しい斑入りのアオキが、これも常緑樹なので年中青々と茂っています。このこんもりとしたアオキの上に落ちた椿の花を、もう一度活かして(生かして)みたいと思いました。実際は小さなつぶつぶの目立たない花しか付けない「アオキの木にピンクの花が咲きました」とは、エイプリルフールのネタになるかもと思ったのです。私の友人に、「えー?そんな?」と言ってくれるほど植物に詳しい人がたくさんいるとも思えず、お蔵入りとなりました。残念。
ちなみに、前(さき)の友人に意地悪をして、「椿も山茶花も似てるけど、お茶の木もよく似てるよねー」と振ってみると、大層困惑したような面持ちになりました。まろやかで深みのある味を醸し出すやわらかく蒸されたお茶の葉が、あのごつごつとした椿や山茶花と同じ種類なのが許せなかったようです。